すごいということ

卒業研究が切羽つまったときに考えたことですが

自分の研究は全く凄くないんじゃないかと考えることがあります。研究という名前がついているだけで、ただの作業のような気がしています。ただ、幸運なことに周りの人はすごいといってくれます。

少しだけ、研究内容について示すと、メールを使って掲示板の内容を配信しようというもの。

何がすごいのかと問いますと、それを実際に学校で実稼動させたり、それにより従来の掲示板より効率よく情報伝達できる点がすごい。と答えてくれます。

言ってる事はわからなくもないんですが。
そう言ってくれる人はブログ(いわゆるCGIで自動生成しているHTML)を静的なHTMLとして出力できる機能を研究しました。
僕はこの機能がすばらしい機能だと思います。聞くによるとそのブログシステムではHTML出力の機能が無いためもしかすると初めての機能かということだそうです。

後者の方が明らかにすごいと考えるのは僕だけでしょうか。

その問にはこう答えが返ってきました

例えば、レゴブロックを開発した人がいる。
その人はレゴブロックを創ることでいろいろな形状を象れることを可能にしたということですごいといえる。つまりは、ひっつけたり、積んだり、色が違うものがつなげたりする。自由に。
じゃぁ、レゴブロックで東京タワーを作った人はすごいか?
すごいといえないか?

僕はこう考えます。
色が違うものをつなげたり、ブロックを重ねたり、積んだりすることはもうできることがわかっている。東京タワーはその繰り返しによって作り出せる。だれもにとって自明である。よってこの点ではすごくない。

つまり僕が言いたいことはこうです。
自分の研究は小さなブロックを延々と積み重ねる作業である。
メールを受信し、Stringを読み取り、代入し、データベースから検索してきて、その内容を追加し、登録し、メールを送信し・・
レゴブロックでいうと東京タワーを作ってるのですらなく
泥団子を作ってるような感覚。だから、研究としてすごくないのではということです。

研究を始めたての学生にすごい研究ができるわけないとか
そういうことが言いたいのではありません。

さらにたとえを追加すると
「嬉しい」という文字(記号)に嬉しいという意味を与えた人はすごい。ただ、作家はそれらを用いて文章を書いているだけですごくない。
ちなみに彼らがすごいのはその文章に芸術性や感性が存在するからだと思います。

研究というものは、往々にして嬉しいという意味を付加する、もしくは創りだすことにあるんじゃないでしょうか。